
福岡県八女郡星野村
 |
 |
 |
神仏分離令以前は小野内宮大権現宝栄山光照寺と称し、
嘉暦二(1327)年、小野四郎三郎頼時とその母 比佐尼如心により創建されました。
頼時の父は名を小野大進頼承と言い、弘安の役(1281)では鎌倉より下って果敢に戦いました。
その様子は「蒙古襲来絵詞」の中で草野経永兵船の場面に描かれ
小野大進頼承は負傷と同時に弓を捨て、薙刀で攻撃を加えようとするも、
驚いた水手が櫓を捨てて逃げてしまったので、結局船を近づけることができなかった。
と記述が添えられています。
頼承は安達泰盛の郎党であったために霜月騒動に巻き込まれ失脚。
頼時は、母 如心と共に鎌倉を追われ、西国に落ちて行きました。
途中の海上で嵐に遭い危険にさらされましたが、箱根権現の加護で難を逃れることができました。
その後、永仁元(1293)年、父 頼承の無実と弘安の役での軍功が認められ、
小野荘地頭職に任じられました。
頼時は箱根権現を観請し、一族の守護と繁栄を祈願しました。これが小野神社のはじまりです。 御祭神は彦火々出見命ヒコホホデノミコトと菊理姫命ククリヒメノミコト。 |
小野氏は南北朝時代は南朝方として戦いました。
征西将軍宮懐良親王の御在所が小野内宮付近にあったとされ、
境内には懐良親王お手植えと伝えられる樹齢六〇〇年の大銀杏があります。
天正十四(1586)年七月、薩摩軍が筑前に侵入。
しかし、時はちょうど九州征伐の折。
島津義弘は豊臣秀吉が軍を進めてきたことを知ると、
空城だった高鳥居城(福岡県糟屋郡須恵町)を
筑後の豪族 星野中務大輔吉実・星野民部少輔吉兼に任せ撤退してしまいました。
天正十四(1586)年八月二十五日、吉実・吉兼兄弟は立花宗茂に攻められ、
高鳥居城にて討死。星野氏は滅亡。
宗茂はこの兄弟を手厚く葬りました。現在、福岡市博多区にある「吉塚地蔵尊」です。
小野氏は星野氏の重臣であったために運命を共にします。
その後、小野氏一門である中野九郎左衛門をはじめとした十二人が
神官として小野荘へと戻ることが許されました。
平成二十三年一月十三日追記
〜史料紹介と左京亮雑感〜
歴史を紐解けば、その昔、小野氏は鎌倉武士だったことが分かります。
言い伝えによれば、鎌倉以前は都人だったという話も。
小野氏・中野氏(父方の祖父の先祖)は一族だと聞いておりますが、
文献が乏しいためにどういう血縁なのかは詳細不明です。
◆『星野村史』内
「筑後国星野郷上妻郡小野村宗社
内宮七社大権現由来」の記述から。
“嘉暦二年
宝栄山 願主小野郷住人四郎三郎頼時
内宮箱根童子権現
光正寺 大宮司左衛門尉佐十郎種次
十月吉日 中野与藤太郎”
と小野と中野が名を連ねています。
◆『星野家譜』P12によれば
“〜中野監物 鹿毛兵庫 中村左近 香月修理 宮川内匠
釜瀬主馬 椿原兵部 和仁宮内 佐藤左衛門兵衛等ノ者、
皆黒木ノ御内ニテ、連越来る分家ナリ。”
黒木氏は星野氏の本家。
中野氏が星野氏とも同族であったことが推測されます。
◆同じく『星野家譜』より。 天正十四年、星野氏滅亡の折。
中野右京亮季兼(山中城)は
“由美東里能曾乃南久智女也止志婦東毛
與仁氣古由羅務志知仁伊留美波”
(ゆみとりのそのなくちめやとしふとも よにきこゆらむしちにいるみは)
という時世の句を残しています。
また、同じ時、左京亮の母方の祖父の先祖と思われる
古賀主殿介光暉(田籠城)は
“世能名嘉波加和里由久登毛比佐賀多乃
保志乃比加里乃野古留久佐志呂”
(よのなかはかわりゆくともひさかたの ほしのひかりののこるくさしろ)
を詠んでいます。
『星野家譜』には各々の時代に小野・中野・古賀が度々登場します。
我が家は数百年前の昔から筑後国の住人だったことに驚き、
得体の知れない因縁と何か懐かしさのようなものを感じずにはいられません。
また、それらがルーツさがしや甲冑の世界へと私を狩り立てている所以なのかもしれません。
|
中野家の家紋

五七の桐
|
≪参考文献≫
「星野村史」
「星野鉄砲隊」
「筑前戦国争乱」
「福岡県の城」 |
|