SAMURAI

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→秋月氏




秋月種実


天文十四年〜文禄五年
  (1545〜1596)


 秋月種雄より十六代。幼名は黒帽子。秋月種方の次男として生まれた。

 弘治三(1557)年、大友宗麟の攻撃により本城 古処山城(福岡県甘木市)陥落。
この時、父種方・兄晴種戦死。十三歳の種実は僧 高韵に伴われ毛利元就の許へと逃れる。
元就は八百石を与え、土豪 内田壱岐は邸を提供した。

 種実と旧臣たちは秋月家再興の機を窺っていた。
深江美濃は我が子を大友の人質として差し出し、疑いを逸らした。
永禄二(1559)年元旦、古処山城の守将が府内(大分市)に参賀し手薄になっているところを
毛利軍三千と内田壱岐の弟 善兵衛も援軍として加わりこれを急襲。奪回に成功した。
種実はその後も宗麟と幾度となく対峙した。
そして、北を毛利、東を大友、西を龍造寺、南を島津と強国に囲まれながらも勢力を拡大。
筑前(夜須・上座・下座・嘉摩、穂波)、筑後(御井・三原・生葉)、豊前(企救・田河・京都)の十一郡
(一説によると肥前の基肆、養父二郡も含む)。石高にして三十六万石を有したと言われている。
まさに秋月氏の最盛期であった。

 しかし、その勢いも長くは続かなかった。
天下統一を果たそうする豊臣秀吉がついに九州へと駒を進めたのである。
種実は敵情をさぐるために講和の使いを装って恵利内蔵助暢堯を秀吉の許へと送った。
内蔵助は秀吉に会い、国へ戻ると敵対すべきでないことを伝えたが、種実父子はこれを聞き入れなかった。
内蔵助は死を以って主君を諫めるほかないと決意し、荒平城(福岡県甘木市)下の大岩において
妻・長女・次女を刺し、自害して果てた。
天正十五(1587)年四月一日午前四時、戦いの火蓋が切って落とされた。
一ヶ月はもつであろうとされていた岩石城(福岡県田川郡添田町 兵三千)であったが
主将を欠く(主将 隈江越中守は戦闘開始の十日前に病死説あり)上に多勢に無勢。
芥田悪六兵衛が懸命に守るが
   第一隊 蒲生氏郷 兵二千 ・ 第二隊 前田利長 兵三千余 ・ 予備隊 羽柴秀勝 兵五千
の攻撃により悪六兵衛以下城兵四百人が戦死。わずか一日で落城してしまった。

 種実は降礼使として福武美濃守入道道恩を派遣。
豊臣秀吉に面会するが許されず、引き返して種実・種長父子に伝えた。
秋月種実父子は剃髪。秋月へ向かう秀吉を芥田(福岡県嘉穂郡嘉穂町)で出迎え、
十六歳の息女を人質として差出し、茶器 楢柴の肩衝・金百両・米二千石を献上し降伏した。
一命を助けられ、秋月氏は日向国財部(現在の宮崎県児湯郡高鍋町)三万石に移封された。
秋月を去る時、「十石でもよいから秋月の地にとどまりたい」とつぶやかれたとか。
今も十石山という山名が福岡県甘木市に残る。

 戦国の世に生まれ、その一生を戦いに投じた種実は、文禄五(1596)年九月二十六日、伏見の邸にて逝去。
享年五十二歳。法名は西林院殿笑翁宗ァ大居士。紫野大徳寺(京都市)の塔頭見性庵に眠る。



≪参考文献≫

「高鍋藩史話」
「福岡県の城」
「筑前城下町 秋月を往く」

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